言葉と表情からケアを

言葉と表情からケアを

私のいる小さな小さな事務所が入居しているビルでも、京都の街の中心にあるために近くにある大きな飲食店や販売店チェーンの事務所に利用されています。しかし、スタッフの方とエレベーターで同乗したり乗降ですれ違っても会釈の一つもあまりないことがけっこうあります。

ふと、京大の元総長の京極教授のゴリラの研究の話を思い出しました。「人間ほど顔の表情筋が発達した動物はいない」「人間は進化の過程で、あえて白目の部分を大きくし、瞳の動きを相手に晒すことを選んだ。そうして互いに感情を示しあい、共感が生じる可能性を身体に保証することで、社会的な存在となってきた」(山極壽一京都大学総長)とおっしゃる。

パリ大学で学んだ偉大な文化人類学者でもある岡本太郎画伯の師匠であり、偉大な文化人類学者のマルセル・モース教授の名著「贈与論」において、感情や共感というのは、贈与商品の交換のなかに押し込まれ、実はその共感や感情そのものが出入りしているのだと書いてあります。非常に難解な本ですが価値ある本です。そして、岡本太郎氏もすごいと思います。

「言葉というのは、仲間の数を一気に広げることには役立ったけれども、信頼関係を作ってそれをつなぎとめるためにはあまり役立っていないかもしれない」(山極壽一 同)とおっしゃる。

それが顕著にわかるのは、スポーツであること、ワールドカップラグビー(15人)やサッカー(11人)などチームスポーツの人数には限界があります。スポーツの1チームがせいぜい15人までであることからもよくわかります。

ラグビーのプレイ中に言葉など必要がない。創造性にあふれ、相手を出し抜くプレイをしていてまさか言葉を交わしている間などあるわけがない。以前ワールドカップで、中田英寿選手のキラーパスなど見ているとそのクリエーティブな連携はなおさらわかります。

社会的な行動をとる動物の集団でも同じようなものではないでしょうか?意味づけするには言葉は必要不可欠でしょうが、顔の表情で気持ちはわかります。

現代社会においては、電話やスマホによる連絡、メールによるやりとりなどで言葉への依存性が高まり、「気持ち」というものが現代人には、だんだんと読み取れなくなってきているのではないでしょうか。

言葉は、保存可能で記憶により持ち運ぶことができるし、他者が見ていないものをある程度説明できるし、共通の名前をつけてそれこそ便利な分類などをして共有できます。そして、時間を超えて未来を想像したり、過去を伝えることもできます。言葉は人間にとって非常に大切なものです。

たとえば、ロマンスといえば、恋愛を意味します。けれども、元はと言えば、テレビも映画もない時代の娯楽として、紀元前ローマ人が作った小説がほとんど恋愛ものだったから、それに憧れローマ帝国の洗練された文化の影響を受けた国々の人々がローマ人の創った恋愛物ということで、恋愛の意味がローマ人のからローマンスということが恋愛小説の意味になったことから言葉が物語の恋愛という創造をつくったことがわかります。

しかし、AIの時代になればなるほど、我々はセラピーの重要性が高まるということを、言葉と感情の関係から、こんな話を機会があれば話させていただいておりますが。なぜなら、医療におけるキュアは、絶対対象として答えがあるものですが、セラピーにおける心のキュアには絶対的な答えがあるわけではないのですから。

人は、その相対的なものの中でケアを見出し、それはする側とされる側の相互の一体性の中からしか生まれてこないからです。「言葉というのは、仲間の数を一気に広げることには役立ったけれども、信頼関係を作ってそれをつなぎとめるためにはあまり役立っていないかもしれない」と京極先生はおっしゃいます。

そうだからなのでしょう。喜怒哀楽の感情も自分の心の中だけとだと思っていても、他者との関係の中で生まれてくる。日頃の社会での交流をとおして、その中から心地よさを感じるのか、はたまた居心地を悪く感じるのか、を決定してしまうようにすら思える。最適というのは、一般的な結果や効果のための基準ではない。

この贈与の説明は深く簡単に一度では説明がつかないのだけれど。コロナ禍で、リモートを使いながら、natural table cafe をまずは田代先生さんと初めてみたい。いろいろな企画を練っていきたい。

お手伝いをしてくださる方があれば一緒にやりませんか?もちろん、私の一存で決めるわけではありませんが。

FOUNDER 市邊

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